Atheism: A Very Short Introduction (Very Short Introductions) Julian Baggini (著)
少数派の議論作法
欧米では無神論は圧倒的少数派である。神の存在を公然と否定することは、日本で天皇制の廃絶を主張すること以上のタブーと言ってよい。欧米で「信仰の自由」と言う場合、そこで意味されているのは「自分が正しいと思う方法で神を信じる自由」であり、無神論を採る自由は暗黙の内に除外されているのが通常である。神が無ければ倫理は存在しえず、生きる目標もないというのが西欧キリスト教社会の伝統的通念であり、無神論者は自暴自棄で陰鬱で孤独な人達とみなされている。本書は、そうした無神論者に対する偏見を打破し、無神論を果敢に擁護しようとしたものである。
規範的議論においては、自分と相手とが共有できる命題を探り、それとのアナロジーで自説を正当化することが求められる。たとえば、「殺人は許されない」(共有命題)→「堕胎 は殺人の一種である」(アナロジー)→「堕胎は許されない」(自説)といった具合である。しかしながら、無神論者と有神論者の間では、共有できる命題が絶望的なほど見出し難い。著者も指摘するように、有神論者にとって神の存在は、しばしばデカルト的な自我の存在と同程度に、自明で疑い得ないものだからであ る。
そこで著者が採った戦略は、論理の基礎まで立ち返るというものである。分析哲学の成果を援用し、「そもそも論証とは」といった原点か ら議論を進める。有神論者によって吹き付けられた様々な偏見を取り除いた「ピュアな無神論」は、およそ論理的・理性的であろうとする限り、否定できない帰結であることを示そうとする。著者の真摯で粘り強い論証スタイルには、敬意すら覚える。
一神教への信仰が少数派にとどまり、宗教全般が儀礼化している我が国において、本書の議論の内容が直接参考になる場面は、あまり多くないだろう。それでも本書は、社会における圧倒的な少数派が、どうやって自分達の意見を周囲に伝えていくか、その一つの模範を示すものとして、大いに参照されるべきである。
欧米では無神論は圧倒的少数派である。神の存在を公然と否定することは、日本で天皇制の廃絶を主張すること以上のタブーと言ってよい。欧米で「信仰の自由」と言う場合、そこで意味されているのは「自分が正しいと思う方法で神を信じる自由」であり、無神論を採る自由は暗黙の内に除外されているのが通常である。神が無ければ倫理は存在しえず、生きる目標もないというのが西欧キリスト教社会の伝統的通念であり、無神論者は自暴自棄で陰鬱で孤独な人達とみなされている。本書は、そうした無神論者に対する偏見を打破し、無神論を果敢に擁護しようとしたものである。
規範的議論においては、自分と相手とが共有できる命題を探り、それとのアナロジーで自説を正当化することが求められる。たとえば、「殺人は許されない」(共有命題)→「堕胎 は殺人の一種である」(アナロジー)→「堕胎は許されない」(自説)といった具合である。しかしながら、無神論者と有神論者の間では、共有できる命題が絶望的なほど見出し難い。著者も指摘するように、有神論者にとって神の存在は、しばしばデカルト的な自我の存在と同程度に、自明で疑い得ないものだからであ る。
そこで著者が採った戦略は、論理の基礎まで立ち返るというものである。分析哲学の成果を援用し、「そもそも論証とは」といった原点か ら議論を進める。有神論者によって吹き付けられた様々な偏見を取り除いた「ピュアな無神論」は、およそ論理的・理性的であろうとする限り、否定できない帰結であることを示そうとする。著者の真摯で粘り強い論証スタイルには、敬意すら覚える。
一神教への信仰が少数派にとどまり、宗教全般が儀礼化している我が国において、本書の議論の内容が直接参考になる場面は、あまり多くないだろう。それでも本書は、社会における圧倒的な少数派が、どうやって自分達の意見を周囲に伝えていくか、その一つの模範を示すものとして、大いに参照されるべきである。