読書録

Sunday, September 14, 2008

リヴァイアサン 長尾龍一(著)

イカロスの墜落

本書は三つの部分から成る。国家概念の変遷を綴った第1部、ホッブズ、ケルゼン、シュミットという三人の思想家の国家論を比較・分析した第2部、そして超全体主義の可能性をSF的に考察した「付 国家の未来」である。各部はゆるやかに関連しており、本書に通底する著者の問題意識は「はじめに」と「あとがき」において語られる。

本書第2部での三人の思想家の比較・分析は、まさに専門の研究者ならではのもので、そのレベルの高さは評者のような門外漢にも伺い知れる。他方、本書第1部や付章、それに「はじめに」と「あとがき」での著者の国際政治への洞察は、戸惑うほどに素人的で、ナイーブとの印象を否めない。本来、前者の分析が後者の主張に説得力を付与するはずなのだが、どうしてもそうなっているようには思えない。

実は、こうした読後感は本書に限ったものではない。学者が国際政治について行う言説全般に共通するものである。

おそらく、現在進行形の国際政治というのは、学問的に語り得る領域ではないのだろう。学者がどれだけ優れた理論を構想したとしても、それを現実の問題に適用して提言を導くためには、三段論法における小前提としての諸事実が必要である。しかし、国際政治が為政者間のゲームとしての側面を有する以上、国際政治における諸事実は決して十分には公開されない。相手に手の内を明かししてしまってはゲームにならないからである。公開されるのは、相手の行動に影響を与えない重要でない事実(遠い過去の事実を含む)か、あるいは相手の行動への影響を期待した操作された事実のみである。結果、国際政治についての学者の言説は、必然的に机上の空論となる。

結局のところ、国際政治について学者が行い得るのは、既に公開された過去の諸事実について史的分析を行うことか、あるいは抽象的な理論を抽象的なまま為政者に「献上」することだけである。これらを踏み越えて現実の国際政治について論じようとするのは、学者には過ぎた振舞いなのだ。

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