読書録

Sunday, September 07, 2008

憲法とは何か 長谷部恭男(著)

むかしなつかし文化人

戦後、1970年代くらいまで、日本には「文化人」と呼ばれる人たちがいた。彼らは豊富な学識と流麗な文体を武器に、東西冷戦から公害問題まで、幅広い話題について華々しい論戦を繰り広げたものである。だが、今ではそうした人たちはどこかへ消えてしまった。現実政治の諸問題の解決に必要なのは、教養の豊かさや文章の巧みさではなく、もっと地味で着実な社会工学的専門性だということが徐々に認識されるようになったからである。論壇貴族たちの華やかな論戦は、結局のところ、装飾された床屋談義以上のものではなかったのである。

丸山眞男が繰り返し引用されることからも推察されるように、著者にはどうもこうした万能文化人への憧憬があるようだ。それが本書の記述の所々に「危うさ」を感じさせる要因ともなっている。たとえば著者が、「冷戦下において共産主義の脅威に対抗するためにアメリカの核の保護を受けたことは…合理的な選択であったといえる。しかし、それ以上に、他国の体制の変更を求めて武力を行使することを厭わない特殊な国家(評者注:アメリカのこと)との深い絆を求めるべきか否かについては、より慎重な考慮が必要であろう」とか、「深刻な環境問題に対処するために必要な地球規模の協力関係を構築していく上で、そうした特殊な国家と深い絆を結ぶことの有効性をいかに評価すべきかも重要な考慮要素となる」と、良く言えば慎重な、悪いく言えば回りくどい言いまわしで語る時、著者は自分が述べていることをどこまで理解しているのだろうか。著者が誇る欧米政治哲学の豊かな識見は、日米関係や環境問題についての何の専門性も保証しない。ここでの著者の発言は、素人の床屋談義以上のものではない。憲法学者が憲法学者として語り得る範囲は、著者が考えるほどには広くないように思われる。

勿論、本書には憲法学者ならではの見識も多く含まれている。たとえば巷で主張される改憲論の多くが法学的に無意味であることを示す冒頭のくだりは、憲法学者ならではのものである。だが、専門外の事柄と専門内の事柄を一冊の本で語るのは、非常に危険なことだ。同様の路線をとり続けた場合、いつか専門外のことで筆を滑らせ、著者の憲法理論の信用性まで損なわれる結果とならないか。特に昨今、専門家の専門外での不用意な発言は、ネット言論での格好の批判対象となる傾向がある。人ごとながら心配である。

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