大衆教育社会のゆくえ 苅谷剛彦(著)
15年後から振り返って。
本書の初版は1995年だから、既に15年近くが経過したことになる。今では、著者が本書で問題とした素朴な学歴社会批判は、あまり目にしなくなった。欧米でも学歴が(しばしば日本以上に)重要な役割を果たしていることは広く知られるようになってきたし、理想としての「実力」と現実としての「学歴」を対比して優劣を論じるようなナイーブな議論も、以前に比べ流行らなくなってきたように思う。また、能力別クラス編成や補修の実施は生徒の劣等感の助長につながるからけしからんといった奇妙な平等主義も、少なくとも教員集団の外では、もはや賛同を得ることはないだろう。その意味で、著者が本書で企図した教育にまつわる諸神話の破壊は、確かに達成されたと言ってよい。
しかし残念なことに、教育政策が実証データの分析よりも人々が抱く情念やイメージによって決定される傾向は、過去十数年間いっこうに改善しておらず、むしろ悪化しているように思える。「個性の尊重」「生きる力」「ゆとり教育」「学歴低下」「学級崩壊」「愛国心」「モンスターペアレント」と、次から次へとキーワードが生産され、消費される。古い神話は新たな神話に置き換えられただけであった。いつの日か皆がクールダウンして、著者が提案する「教育と社会との冷静な検証」が議論の主流を占める時が来るのだろうか。どうも見通しは暗そうである。
本書の初版は1995年だから、既に15年近くが経過したことになる。今では、著者が本書で問題とした素朴な学歴社会批判は、あまり目にしなくなった。欧米でも学歴が(しばしば日本以上に)重要な役割を果たしていることは広く知られるようになってきたし、理想としての「実力」と現実としての「学歴」を対比して優劣を論じるようなナイーブな議論も、以前に比べ流行らなくなってきたように思う。また、能力別クラス編成や補修の実施は生徒の劣等感の助長につながるからけしからんといった奇妙な平等主義も、少なくとも教員集団の外では、もはや賛同を得ることはないだろう。その意味で、著者が本書で企図した教育にまつわる諸神話の破壊は、確かに達成されたと言ってよい。
しかし残念なことに、教育政策が実証データの分析よりも人々が抱く情念やイメージによって決定される傾向は、過去十数年間いっこうに改善しておらず、むしろ悪化しているように思える。「個性の尊重」「生きる力」「ゆとり教育」「学歴低下」「学級崩壊」「愛国心」「モンスターペアレント」と、次から次へとキーワードが生産され、消費される。古い神話は新たな神話に置き換えられただけであった。いつの日か皆がクールダウンして、著者が提案する「教育と社会との冷静な検証」が議論の主流を占める時が来るのだろうか。どうも見通しは暗そうである。
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